今に限らず不要不急です

 不要不急の仕事

 この老人の仕事はすべてがいわゆる不要不急の範疇に入る仕事である。と大上段に構えるようなものではなく、いつもは心の中でこっそりと恥じ入っているわけなのだが。先日ある新聞で天下の養老孟司先生がご自分の仕事のことを不要不急だとおっしゃっておられましたが、この老人などは不要不急の仕事を正月の鏡餅のように切り取りながらなんとか日々のパンに充てて食いつないでいるのであるから、老人自身が不要不急そのものだといえるわけである。こういった機会にわが仕事を考察してみるのも暇つぶしにはうってつけだというわけで、今から試みを始めてみることにしよう。

 実は私はいろいろな資格を組み合わせその中からほんの少しの果実を得ている。言ってみれば社会のおこぼれをすくい上げ、それを何とか見えるような形にしていくばくかのお金をいただいているということになる。さぞかし漁民や農民あるいは大工さんなどから見ればきわめて情けない、小賢しい生き方に見えることだろう。残念なことに生活力というものが徹底的に不足しているのでこういう道を選択せざるを得なかったのである。また一般には「先生」(どこが先生なのだろう?)と呼ばれる仕事に自尊心がくすぐられたということも告白しておかねばならないが。

 今収入のメインとなっているのがスクールカウンセラーなのだが、これはまあ資格ででいえば臨床心理士と公認心理士ということになる。臨床心理士民間資格で公認心理士は新しくできた国家資格であり、その資格はいわゆる名称独占資格なので仕事をする際にそれらの名称は使えませんよ、ということになっている。どんなことをするのかといえばいわゆるカウンセリングを行うのである。それならそのカウンセリングとはなんなのだということに当然なってくるのだが、「それはこうこうなのですよ」と一口ではいえないのである、などと言えばどことなく胡散臭そうなのだが、やっている本人からして何となくそのように感じているのだから、本当におゆるしくださいとしかいいようがないのだけれど。昨年東畑開人さんの「居るのはつらいよ」という本が大佛次郎論壇賞を受賞したが、この本にも沖縄の精神科に職を得た臨床心理士が看護師どころか事務員もやっているような患者相手の仕事をすることに対して自分の専門性とは何か悩み続ける日常をユーモアに包み込みながら書いておられた。私などはこの本がどおして論壇賞なのか不思議なのだが、それはさて置き、臨床心理士がその専門性を発揮したいと思えば(もし専門性というものがあればだが)入院患者にカウンセリングを施行するしかないのだが、そのカウンセリングというもの、むやみやたらに人を見ずに行ってよいものではない。カウンセリングを行ったことで状態が悪くなったなどという例はいくらでもあるからだ。従って医師からカウンセリングの指示を受けた患者のカウンセリングを行うということになる。それなら何をしようか?草野球やバスハイキングという別にカウンセリングの専門家でなくてもできることをやるしかないのである。それがいやならカウンセリングルームに籠っている(それが許されるのならだが)しかない。スクールカウンセラーもそれと同じである。カウンセリングというのはいうまでもなく外来ものなので、本人の意思でそれを受けに来た者に対して対価を示し、一定の時間で、一定の場所で、秘密を守り、一対一の対等な関係で行った結果本人の力で回復していくものと大体の教科書には書かれている。カウンセラーが回復させるものではないということになっている。

 では学校ではどうなっているのか。もちろん学校でもスクールカウンセラー(面倒なので以下SCという)が見かけた生徒に見境なくカウンセリングを受けないかと声をかけるわけではない。まして生徒からカウンセリングを受けたいといってSCのところにやってくることもまれにしかない。ではどうするのか?病院では医者の指示だとすると学校では学校の先生からの要請がある生徒にカウンセリングを行うのである。要請の内容は多岐にわたるので詳説はひかえておく。ここでカウンセリングというと何か非常に高等な技術を使っているように聞こえるが、何のことはない、小学生なら一緒に遊び雑談をする、中学生なら雑談が中心になってくるだろう。相談室と呼ばれている教室に行けない生徒が過ごしている部屋でトランプやウノをして遊ぶこともある。要するに雑談をして遊んでいるわけだ。そこに専門性がないわけではない。例えばこの子は何らかのトラウマを抱えているので今はそれをあまり刺激しないようにしようとか、その子に合った対応の仕方を教員にアドバイスするというようなことである。(大概の教員はふんふんと聞いているが、それはおそらくSCと議論するような無駄な時間を取りたくないと思っているからだろうと想像できる。それでなくとも教師は忙しいのだ)。もうそろそろ結論に入らなければならないが、要するに今はやりのエビデンスの証明がつかないのだ。SCと話したおかげでよくなったといわれることもあるが、よくなったこと自体のエビデンスは問わないにしても(それも教員一人一人の見方によるところ大なのだが)、よくなったとしてそれがSCの力なのか家庭でなにかの力が動いたのか、本でも読んだのか、テレビでよい話を聞いたのかよくわからない。つまり回復していくきっかけはいくらでもあるのだ。

 そろそろ結論に入らなければ。今は学校が休講なので生徒はいない。先生は半数ずつくらいの自宅勤務と出勤という形になっている。自宅勤務だといっても実際は自宅でなにをするでもなく過ごしているのかもしれない。もちろん勉強している人もいるだろう。だがどのように過ごしていても自宅勤務をしているで世間は通用するし本人も何らそれについて疑いは持たないだろう。そう考えると教員は不要不急の仕事ではなさそうだ。生徒はどうだろう。生徒がいなければこの国の将来はないし、学校だって必要ないではないか。学校の生徒こそ不要不急ではないものの代表とでもいえそうだ。ではSCはどうだ?教員が出勤している限りSCも出勤可能とわが県ではなっているが、生徒がいない学校に出勤して何をするのか?掃除か?読書か?どのように過ごすにしろ気の小さなこの老人などは周りの目が気になってしょうがないのである。ああでもないこうでもないと考えながら学校に行ってみると、生徒がいないので勤務は来月からということにあっさりとなってしまった。と、ほ、ほ。SCは不要不急の仕事だというエビデンスが成立してしまった瞬間でもあった。