人生の目的あるいは無駄な人生

人生の目的

 この老人も人生の終盤に差し掛かってきた近頃、ふともうどうでもいいかと投げやりになってしまうことが増えてきたようだ。そうなると生来のいい加減さからあらゆるものへの興味が一時に崩れ去ってしまうのである。例えば外国語である。単なる外国語オタクのようなものにすぎないのだが、イメージとしては漱石の小説に出てくるような普通の生活をしていながら本棚には洋書が並んでいて、毎日洋書を楽しんでいるようなイメージがこの老人の頭の片隅から去らないので、思い出したように外国語をやり始めるのだ。もう一つは大杉栄が獄中で外国語を勉強しているイメージだ。とうとうこの年になってもイメージが先行してしまうくせから抜け出すことができないでしまった。そうなるとどういったことが生きていく過程で起きるのか?つまるところはあほ以外の何物でもないのだが。

 最初の外国語は誰でもそうだろうが英語である。フランス語が中高の第一外国語だったというやつがいるということを後の大学時代に知るのだが、それはほとんどめったにないまれな事例であろう。私も当然のこととしてジス・イズ・ア・ペンから入ったのであるが、何分超ド級のド田舎なのでそれまでに外国人などほとんど見たことがない、今思い出したが、小学校入学前くらいの時アメリカ軍の飛行機が故障して大川に不時着したことがあり、その飛行機を回収するための道路を作るためだろうが、何か月間くらい兵隊さんたちが隊を組んでやってきていたことがあったので、外国人をほとんど見たことがないというのは記憶違いなのだが、そのことは中学生の自分にはカウントされていなかった。純粋に外国人などほとんど見たことがないと思い込んでいた田舎の中学生にとって英語の授業で先生の後についてジスイズ~というほど恥ずかしいものはなかったのだ。なにせ畑で遊んでいて間違って小便たご(糞尿をためておく桶である)に落ちてしまった奴が「しょうたご」というまったくしゃれもなければデリカシーもないあだ名をつけられ、ともすれば大人になってもそのあだ名で呼ばれ、呼ばれるたびに抗議することにも疲れてしまったのか30も過ぎたおっさんに「しょうたご」と呼びかけると「おー?」(なんだ?くらいの田舎言葉)と答えるというような土地柄なのである。小学校の時に畑で一緒に遊んだ相手が悪かったのだ。おもしろおかしく言いふらしたのだろう。下級生の私らなどは、さすがに面と向かってはあだ名で呼びづらく、かといって名字で呼ぶと呼んだ気にならず(正式な名字を知らなかったやつらもたくさんいたが)、あだ名で呼んでさっと逃げることを繰り返し、逃げ遅れたやつは2~3ぱつ殴られてその場はおわり。みんなその程度の中学生なのである。ちなみに私は顎が出ていたので「あご」だった。なんというあだ名、まさにそのものではないか。脱線してしまったが、そんな生徒たちに英語が必要であろうはずがない。こんな中学でももちろん頭のいい奴はいたが、そんな奴らは特別な頭をしているのだろうが、そいつらを別にすれば英語などはまったく気にもかけないものばかりだった。もちろん私も例外ではなく、まじめに発音に取り組んでいるやつをうしろからはやし立てていたクチである。

 それがどうして外国語オタクのようになったのかと言えば、高校2年の時くらいだったか、英語の教師にシュリーマンの例の自伝のなかでシュリーマンがどのように外国語を勉強したのかという話を聞いた時、それがその時の自分の感情にフィットしたのだろうが、その本を買って読んだあとから英語を勉強するようになったのだ。始めて見れば勉強(点数を上げると言った方があたっているだろう)自体はそれ程困難なことではなく8か月くらい続けるとけっこう成績は上がっていった。大した高校でもなかったからというのが最大の理由だろう。それはそれとして勉強方法は単純そのものだった。まずノートの両ページを使い教科書の英語を単元単位でノートの左側に書き写し、右側に自分で訳を書き込む。わからないところは左側の英語に下線を引き、和訳は空欄にしておく。次に5~6回続けて朗読する。暗記しようとして読まなくてもこの頃の柔らかい頭だとこの程度読めば大体は頭に入るのだから不思議だ。授業では先生の言葉を聞き漏らさないようにしてわからない箇所をノートに書き入れる。これを続けていると英語は得意教科になったので不思議だ。

 ところで私には1度頭にインプットされたものはずっと頭の隅に残ってしまいそれがもぐらたたきのように一定時間あるいは相当な時間経過後にぽんと突然表に出てきてしまうことがよくあるのだが、外国語もその一つで、このときにインプットされたに違いない。その後大学の時にはフランス語にかぶれ、授業はロックアウトされたり、大教室で出席も取らないしでバイト以外にやることがないので、4年間というもの完全な独学で、読み方もわからない状態で「ドーデの風車小屋だより」から読んでいった。この頃には大杉栄の影響もあったのだろう。最終的にはモーパッサン女の一生を辞書を引きながら読める程度にはなった。バルザックは難しかった。

 大学を出てからしばらく社会人をした後はロシア語だ。当時はおそらく日本に1つしかなかったロシア語の専門学校に入学した。無謀にもレーニンドストエフスキーを原文で読むという目的を立てての一大決心だった。ここでは一大決心をして仕事を辞めてロシア語に打ち込んでいるこの私ほどの強い意志があれば初志を貫徹できるに違いないと思っていたのだが、強い意志を持った人間ばかりの上にいいセンスを持っている生徒もたくさんおり、ここで初めて語学にはセンスが必要だということに気が付いたのだった。また上には上がいるという発見もあった。別に私が上ということは全くないのだが、そのときはそう思い込んでいたのだろう。それで2年のところを2年の授業料を払い込んだ後すぐに嫌気がさして行かなくなった。その後も中国語、韓国語、そして大学院受験をきっかけに英語に戻り、一時期は寝ても覚めても英語という時期が数年続いた後、クロマティックハーモニカに興味が移ってしまい英語には見向きもしないという時間を今過ごしているのである。これで実害がなければ笑い話で済むのだけれども、この老人の場合はいろいろお金がかかっているのだ。まずはロシア語の専門学校の授業料、フランス語はバイリンガルみたいな名前の教材(相当高価だった)、韓国語は通信教育、英語はこれが読めればすごいということで次から次へとアマゾンで買い込んだ英書の数々。どれだけお金をどぶに捨てたことかわからない。興味が失せた後は見るのも嫌になるので、目の前から抹殺したいという意識が働くのだろうが、あるときは老妻がこんなものじゃまだといった時にここだと便乗して捨ててしまう(幸いに老妻は私の持ち物には全く興味がないのと自分のものでなければ高価なものでも執着しないので助かっているのだが)とか、誰かにあげるとか、二束三文で売り払ってしまったりして目の前から追い払ってしまうのだ。だがそれで終わるのならまだいい。捨てたり売ってしまったりしたものの中には今でも学習の参考書としては1級品だとされているものがあり、それだから高価なものとなっているものも少なくはないが、また勉強を始めるためにはこれがどうしても必要だということで再び買ってしまうことも何度あったか?その度に当然のように価格は上がっているのだから。そしていま(というシャンソンがあったが)クロマティックハーモニカである。6~7台は持っているだろう。もちろん使うときは一台しか使わないので他は眠っているわけだが。漆を塗ってもらったり、木製カバーにしてもらったり、とうとうクレモナという高級品(ほかの楽器ほどは高価ではないがそれでも30ウン万円ほどした)までそろえてしまったのだ。老妻に知れるところされてしまいそうだ。なに!それだけの余裕があるからできるですって?恥ずかしい話が、いや書いているところを見ればそうでもないか?この老人はほぼ国民年金であるゆえ介護保険料を引かれると7万円あるかないかなのである。今は他の収入でなんとかやりくりしているが、今年は、お前は老人だからということなのか、あるいは使い勝手が悪いのかでごそっと仕事を減らされ、さてこれからと、明日をのみ思い煩う日々が続いているのであります。ADHD爺さんはつらいよ。