見て見て!と今だけ主義

幼児性の研究

 この老人の住処には今コロナ禍のために保育所に行けないでおる2人の孫を毎日預かっておるわけであるので、ただぼけーっと過ごすのも何なので少し観察してやろうと思って見ておると面白いことに気が付いた。まあフロイト大先生のエルンスト坊やの糸車(だったかな?)に習ったというわけなのだが。

 さてどのような世紀の発見だったのか。子供というものは兄弟で遊んでおってもまあ長くて10分くらいしか遊べないようにできているようだな。すぐけんかになったりどちらかが触ったとかおもちゃを取ったとかで、大体は下の方がまだことばもはっきりしないくせに何ちゃんがなになにしたといって泣きわめく。そうすると大人はうるさいものだから(大抵は下の方がうるさいようだ)、お兄ちゃんがおもちゃを貸してあげないせいで下が泣いているのだと思い込み、それよりなによりもなにか言わないと下がうるさくて仕方がないので、大体はお兄ちゃんに「思いますおもちゃを独り占めにしないでなになにちゃんにも貸してて、一緒になかよくあそんでね」などと言ってとりあえずその場をおさめようとする。大体の場合は兄が悪者なのだが、よく観察すると少なくとも半分くらいは弟がちょっかいを出して兄に小突かれたりして、最後に弟が泣き出すというパターンなのでいつも兄がわるいわけではない。兄はかわいそうなのである。発見というのは、このことではない。こんなことはこの老人から指摘されなくても賢明なるお母さん方はだれしも気が付いておるわけだ。そんな孫たちでも大人がそばにいればある程度の時間は遊ぶことができるようである。ただこれも信頼できる大人がそばいいることが肝心なのだが。小生のようなただいるだけ、騒ぎ出すとうるさいというだけの老人がついておってもなんにも楽しいわけではないようだ。というのが新発見というのでももちろんない。

 こどもがちょっとしたことができたとき「ほら見て、ほら見て」と大人に見てもらおうとするのである。やはり大人に見てもらってほめてもらいたいのだろう。で、大人がその瞬間を見逃したり、見ていなかったが言葉だけで「すごいね!」といってみたり、「さっき見ていなかったからもう一回やってみてよ」と言っても、もういいと二度とやろうとしないかやっても1度目ほどはうれしそうにはしないのだ。こどもは今・ここを生きているのだろうなあ。「みてみて」という子供の習性をみていて気が付いたのじゃが、そう誰かに似ているのである。誰とは言わない。そう、こんなにうまくいっているよということをだれかに見てもらいたいのだ。そして大事な人にほめてもらいたいのである。こどもは純粋にそれだけで幸せなのだが、おとなはうまくやってることを見せなければいけない、そしてほめてもらわなければ満足できない。ということで外景ばかりを整えてどうみてもらうかばかりを気にしているあいだに、ひょうたんのように中身がまったくなくなってしまったのじゃ。