高度経済成長あるいは自己責任

高度経済成長

 1954年8月22日にこの世に生を受けたこの老人は今年よわい66になろうとするわけであるが、その54年といえば諸説はあるようだがなんと高度経済成長が始まった年だというではないか。1954年がその始まりで終了が70年の16年間だというから小生が生を受けてから田舎の高校2年生までのあいだどっぷり浸かっておったということになるわけなのだな。そうであるわけだが小生たち田舎小僧にはどうもその恩恵に浴したという実感がいまいちないのであるからして、小生の記憶だけを頼りにして(要するにエビデンスを無視するわけだが)もとより妄想妄言である以上お許しいただくことにして早速始めてみよう。

 小生、今の今までなんとなく自分だけを頼りに生きてきたように思っていた。というのも生きるということは面倒な付録品がくっついてくるのでそう思っておる方が簡単なのでそのように思うことにしているとそのうちにそう思い込んでしまうようになった次第でありますゆえ。しかし振り返ってみるといろいろな人に助けられ今日まで来ているということが分かるのだがその話は追々するとして、今日の主題は人ではなく時代のことになる。

 これは後世の(といっても今のなのだが)歴史家が言っていることかどうかは知らないが、その前の朝鮮戦争(1950年~53年)なくしては高度経済成長はなかったはずだ。朝鮮で戦争をしてくれたおかげでアメリカは戦争に必要な物資をどんどん底なしのように日本で作って朝鮮半島に送り込んだにちがいないのだが、そのおかげでそれまで栄養失調のようにひょろひょろしていた基盤産業がなんとかひとりでも倒れないくらいの状態までには持っていくことができたということなのだろう。であるなら朝鮮戦争なくして高度経済成長なしだ。高度経済成長がなければ今の日本もないとするならば高度経済成長なくしてアベノミクス(アホノミクスともいわれているようだが)なしともいえるのか?そうであるならアベノマスクも桜の会も朝鮮戦争のおかげだったといえるのか?朝鮮戦争は韓国と北朝鮮という国がなければなかったわけだから、それもこれもがかの国々のおかげだったということなのか?これは極左的論理の飛躍なのか?いや単なるあほの戯言、妄想だと思っていただき先に進めよう。

 さて高度経済成長期とはどんな時代だったのか。この老人は(といってもその頃は立派な子供だったのだが)そこでどんなことを体験したのか?そこで主役と登場となる。小生の親父である。もう今はいない。

 小生の生家は四国の山の町の三軒長屋の一軒だったことは以前の記事でも書いたとおりだ。その長屋の光景を思い出す限りでスケッチしてみよう。

 その長屋で商売をしていたが、小生が生まれたころは大して売るものもないので親父がその日一日売る商品を預かり売ってきたものに対して一個なのか商品全体なのかはわからないが歩合制で、その上に口銭(手数料)まで払わなければ商売ができなかったということのようである。親父はそれを奥に奥に広がる阿波山地のふもとから中腹に点々と散在する商店(うどんのような軽食からぞうりや地下足袋など生活用品大体がそろう雑貨屋)まで自転車で分け入って行っていたようである。そのときの商売道具は、移動手段としては自転車、売り物は草履や下駄少し高価なもので地下足袋、ゴム靴となるだろうか。おそらく終戦直後から小生が小学校入学前くらいはこんな状態だったと思われる。その頃の写真を見たことがあるが、店先にはたしかに草履がつるされていた。おそらく腐らないからというのと売り歩くのにそれほど重くなかったということが履物商の出発だったのだろう。

 その後移動手段には自転車からホンダのオートバイを数年使い、オートバイからマツダのファミリアバンの自動車になったのが小生が中学生になった時くらいだったか。確か小生が小学校5年くらいの時にテレビが、その前には洗濯機が家に入ってきていたとおもう。冷蔵庫は家電では一番最後だったろう。ものを冷やすだけの冷蔵庫は当時あまり必要とはみなされなかっただろうことは容易に想像がつく。必要のないものを購入する余裕はない。店兼用の住み家は次のような様子だ。そとの明かりが透けて見える薄い土壁、隣との仕切り壁は隣の声も聞こえてくる外壁よりまだ薄い土壁、大雨の時には雨漏りし、トイレは床を四角く切っただけなのでウンチを落とした瞬間にお尻を上げなければおつりがついてくるのでその方ばかりに気がとられているうちにいつのまにか便秘がちになってしまい、とうとう中学の後半くらいから痔になってしまったというほどの薄暗いぼっとん便所、便所紙は日めくりや新聞紙、風呂は丸い木の板を足で沈ませるかたちの五右衛門風呂。記憶の最初は手漕ぎポンプの井戸からバケツでいれていたのがいつのころからか水道に替わっていた。主食は米3割、麦7割の黒ずんだ麦飯と裏の畑でとれる菜っ葉類に味噌汁、というものであった。隣近所は裏から出入りし1~2時間話して帰っていく。母親の着ているものは夏だと薄いネルの下着一枚なのでおっぱい丸出しの格好だった。およそ贅沢というぜいたくとは全く無縁の生活が少なくとも小生が高校を卒業するまでは続いたのだ。たとえ移動手段が自動車に替わろうが家電製品が入ってこようが、生活の基本形はほとんど変わることはなかった。貧乏といえば貧乏このうえない生活なのではあるが、周囲を見回しても似たり寄ったりの生活なので小生のうちだけがことさら貧乏というわけではないように思っているので、こんなみじめな生活から何としても抜け出したいなどと思ったことは一度もなかった。麦飯だけはパサつくのと後になれば白米に切り替えたところも多かったので、ちょっと嫌だったが。というわけで小生には細かい不満はいろいろあったがなんとかそこそこ満足した日常生活を送っていたのである。その生活が中学2年の時に大きく変わってしまった。下層階級の生活のコペルニクス的転換である。どうなったのか。

 それまでにじわじわと田舎の人口が減っていたのに気づくはずもなく毎日の仕事にいそしんでいた親父はある日、売掛金ばかりが増えていくことに気づいた。物を売ってもお金が入ってこない、何より物が売れない。それでやっと人が少なくなっていることに気が付いた。頭の回転のほどは人より遅れを取っても気が早いことでは誰にも負けない親父はその発見の数か月後には商売を廃業してしまい店売りだけにして店は母と祖母に任せてしまった。売掛金の金額の8割にするからといって現金を回収したようだ。それが無理なところはあるだけでいいということだ。その後はお決まりの出稼ぎに出るというコースをたどったのである。そういえば小生が中学3年の時に最後の集団就職列車に乗り同級生たちは都会へ出ていったのだったが、親父はこっそり一人で関西地方に出稼ぎに向かったのだった。列車にといっても東北のように乗ってしまえばああ上野駅というわけにはいかない。行く先には海があるから。言ってみれば集団就職列車まがいのものとでもいうことになろうか。小生は大酒のみのうえに乱暴者の親父が煙たくてしかたがなかったので、これ幸いと羽をのばすことができたのだったが。このような具合で高度経済成長の恩恵は小生も受けているのではあるが、ある日ふと気づけば周りから人がいなくなって商売ができなくなってしまった親父のような者にとってはどのような恩恵があるだろうか。だが都合のいいことに後で泣き言を言っても通用しないようになっているのがこの娑婆なのだ。自己責任ということなのだな。時代の移り変わりも自己責任、下々には自己責任でなかった時代などはなかったのである。