祖母ちゃんたちの太平洋戦争

欲しがりません勝つまではと自粛要請をいたします

 昨今はコロナ禍のもと我がニッポン国はあちらもこちらも自粛一辺倒なのである。おまけに自粛警察などというのが現れ、あそこの店が自粛要請に反して営業しているから取り締まれと市役所に電話したり、自粛要請を守れという自作の張り紙を張って言っているらしいではないか。やっている本人は正義を断行しているつもりになって非常に気分がいいのだろう。この老人、老人ではあるが戦前に生を受けたものではないのでその時代の雰囲気を知らないわけだが、こうなれば例の悪名高き自警団ということになるのだろうなあ。単純な小生などは一億総ざんげとかであの時代はすべてダメとぺけ印が付いたことですべてご破算になったと思っていたのだがそうではなかったのだ。あの時代のすべてが悪かったわけではない、いいものはいつの時代でもいいものなのだ、万世一系天皇のもとにある我々日本人は西洋人のように強制されなければできない国民ではなく、政府に言われなくとも自ら進んで自粛ができる誇りある民族なのだ、というわけけで自粛をするのにも威勢がいいのである。それでふと戦争中はどうだったのかという普通の人間なら当然のごとく浮かぶ好奇心が芽生えたわけだ。普通の人間はそこまで暇ではないという意見もあるにはあるが、それには取り合わずに話を先に進めよう。好奇心が芽生えた場合はどうするか?立派な大人ならまずは文献を調べてからということになるのだろうが、それだけの能力がないので小生の体験を紹介することにする。それならいまはやりのSNSというものと原理は同じになってくるので信憑性は全くないというところにこの考察の不備と考察者のいい加減な感じが現れておるわけだが、それも考慮に入れずに先に進んでしまおうっと。

 小生は何度も書くように四国の山間地の吉野川に沿って小さな平地があるところに何人か集まって集落ができ、それが大きくなって町になったようなところに生まれた。そこは東の方向に向かって町を出れば左には川が右には山が迫っていて、その10キロほど先が同じような隣町(西に向かえば川と山がその逆になるだけ)というというようなところだ。その町で商売をしている家で育った(その日暮らしのという形容詞が抜けていた)。商売というものは、仕入れたものにいくばくかの利をかけて売りさばき、その利によって商人は生活を送るという形をとるものだとすれば、ものを買いに来るなどは、例えば靴の例を取れば(靴屋だったもので)親指の先に穴が開いて親指が見えているだけでは買い替える気にはならず、かかとにも大きく穴が開いているのがはたからでも見て分からなければ、靴を買おうという気にはならないので店には来てくれないのである。また店までは歩いていくわけだから時間もかかる。そこで店に来てもらえないならば売りに歩けばいいではないかということで家中で一番ひまに見えた祖母ちゃんが自主的に売りに歩くことにした。売れるものならなんでも風呂敷に包みそれを背中に負ぶって。ほかにもう一人邪魔なものがいたのでそやつも一緒に連れていくことになった。小生である。弟と違ってよほど手がかかったのだろう。山の中腹に点在している家々を休み休み回っていくのだが、こんなところまでよくきてくれたということでお茶を飲め、昼時にはご飯を食べろとかでまあ時間がかかることこの上ない。物を売りに行っているのか暇つぶしの雑談をして歩いているのか、効率のよさこそ生きる上での最大の基準と考える小生などは(その割にはなんと長い回り道だったことよ)、祖母ちゃんの話が終わるまで待つのがなんと苦痛だったものか。おかげで後年待つのが大嫌いになった。それはこんな具合で後年現れるのだった。やっとの思いで一緒になれた嫁の付き添いで病院で待っていた時、いつまで待たせるのだと頭にカーと血が上ったら最後止めることができずに「こらー!いつまで待たせとるんじゃ!」と怒鳴りこみ「この次ですよ」としれーと言われたのがまた癪に障り、「こんな病院で診てもらわなくてもいい」と席を立って出てしまい次の病院で2時間待つというようなことが何度あっただろうか?それ以後嫁は老妻となる今日まで小生とは絶対に行動を共にはしないのである。

 それはさておき「営業力の基本は雑談なり」ということで、訪ねた先では天気の話からはいり、たばこの作付け、かいこのできなど山の農家の話題に合うような話から、都会に出稼ぎに行っているとおちゃんのことに話が及ぶまでには30分はかかっていただろう。たった30分くらいと思うなかれ。その時その瞬間だけを生きる子供にとって全く興味のない話をしている大人の側での30分がどれほど長かったことか。そして最後はお決まりのように戦争中の話になり、その思い出話が10分ほど続いた後「やっとどんなものを持ってきたのか?」と聞かれ、やおら商品を風呂敷から出すという段取りになっているのである。ことがここまで運べば、山の農家のおばさんたちなど老練な商売人の祖母の敵ではない。子供から父ちゃんのものまで買わされたあげく、またお茶でも飲みに寄れと言って野菜などのお土産までもらって送り出されるのであった。あっそうそう、小生も商売のねたの一部を構成しておったわけであります。「こんなところまで小さな子供を連れてよく来てくれた」と。話が脱線しましたな。

 肝心なのはこれからなのですわ。最後に戦争中の話になると申しましたが、その話はこうなのです。先の戦争はアメリカとの戦争だったと我々は思い込んでいるわけです。もちろん中国との戦争も続いていたわけです。あの当時でもアメリアと戦争してアメリカに負けたという話にはなるのですが、中国に負けたとは誰も言わないわけです。言わないのは思っていないからでしょう。敗戦から10数年くらいしかたっていないのにそのことは忘れてしまっていたのかもしれません。まあそれはそれとして、まとめますと次のような話になるわけです。つまり、今考えればあんな大きな国と喧嘩したって勝てるわけがない。むこうは原爆でこっちは竹やりで、勝てないのは私らのようなあほでもわかる。ではどうして戦争したのだろう。われわれ国民は軍隊(なぜか軍隊と言ってたな)に騙されていたのだ。勝ってもいないのに勝った勝ったと大本営発表とやられたら誰も信用せえへんもんはおらん。「われわれはみんな軍隊にだまされとったんじゃ。終わってみんとわからんことじゃったんじゃけんどな」「天皇陛下もほんまは戦争しとうなかった(したくなかった)けんど、軍隊にだまされていやといえなんだんじゃ(いやといえなかった)。天皇陛下もかわいそうじゃな。」と、国民も天皇陛下もみんなして軍隊にだまされていた哀れな人間という結末に至って初めて商談(雑談か)は終わりを迎えるのでした。戦争中であればわが祖母ちゃんなどは間違いなく憲兵隊に検挙されていたところでしょう。だって神様である天皇陛下が配下の軍などにだまされるわけがないのですから。小生などは後年になってからこの話を思い出すたびに(なにせ耳にたこができるくらい同じような会話を聞かされているのですから)「うむっ」となるのです。ちょっと待てよこの話ではだれも責任がないのか。極東裁判で戦犯として処刑された人達だけが悪かったのか?そのあとではその人たちも(全員なのかどうかは知らないが)靖国神社に合祀されたのでなかったか?靖国神社というのはたしか国のために戦って亡くなった方たちを弔っている神社だったな。以前の総理大臣が毎年参拝していたことがあったな。今の総理大臣も本当は毎年行きたいのにどこかの国に忖度して一度だけでやめているのか?しかし忖度なんて誰が言い出したのだ?こんな便利な言葉があるから「日本人の最大の長所は人を忖度するところだ」などと言い出すやつまで現れるのではないか?でもそんなことだれがいってるのだ?まあ一度だけでも記録には残るだろうから行ったことになるからいいかってか?もしかすればその記録は破棄されてるかもしれないぞ?どっちにしても国のえらいさんたちがこぞってお参りしたがる神社には違いない。まあそんな神社に祀られるわけだからそのひとたちも立派な人たちに違いない。そうすると立派な人を処刑した連合国がわるいのだな。その連合国の親玉はアメリカなのだからアメリカはやはり我々の敵なのだな。とはならないのがこの国なのだな。もとい、話がどこまでもそれていくのでこのあたりで元に戻らなければ、延々と続くことになりそうだ。

 一億玉砕だとか欲しがりません勝つまではと言ってると、一億玉砕なのにあいつは玉砕していないとか勝ってもないのにあいつは欲しがっているというやつが出てきてもおかしいくはない。また勝った勝ったといっているけどほんとは負けているのだと大本営発表のたびに思うよりは、発表のとおり勝っていると思い込ませた方が自分にとって生きやすいだろう。「そんなことはないはずだ」などと隣組の怖いおばさんの前でついつい言ってしまうこともないだろう。「つい、言い間違えました」などともいわなくても済むし。そうこうしているうちに欲しがりませんと言ってるのにあれもこれも欲しいと思っている自分はおかしいのではなかろうかとか上司に父親が危篤なので早引きさせてほしいと伝えたとき上司が「うーん」というので「わかりました今日の仕事を終わらせてから帰ります」とのことで病院に駆け込んだ時にはもう遅かった。そのうわさを聞き付けた上司は「おれはだめだとは一言も言ってない」というようなことがあっちでもこっちでもおきてくるしで、もうてんやわんや。ちなみに戦争中の話ではこんな面白いことも聞いた。上官の命令は絶対だと言われている軍隊でも、その上官に大した意味もなく殴られたのに恨みを抱いて(当時は法事などの集まりの場では男どもは兵隊に行っていたときの話ばかりだった)、殴られた後その上官の背後から耳元でこそっと後ろに目はないからなとつぶやくとその上官の怖がりようはなかったと大笑いしながら話していた。こいつは大して度胸がないので脅すと震えあがるやつだと見透かされているのだ。これ以後殴られなくなったことはいうまでもない。軍隊の上下関係など屁でもないという人も沢山いるのである。またぞろ話は飛んでしまった。

 ここに一人の神様がいるとする。いや神様だから一人とはいわないか。では神さんのことは何と呼ぶのだ。まあいい、ここに神様がいる。神様なのだから責任は神様がとるに決まっている。みんな当然のこととしてそう思っている。でも神様って本当に責任がとれるのか?このコロナが収束したとしてそれが神様のおかげだとするとこの騒ぎを起こしたのも神様なのか?そうすると神様は自分のいたずらの後始末を自分でしただけということにならないか?自分でやったことは自分で責任を取ってくださいか、そうすると責任を取ったことになるな。ただこれが世界中の何十万人、何百万人にも影響を及ぼす行為であった場合、神様は自分で責任を取ったからこれで帳消しというわけにはいかないだろう。では神さんに責任を取って辞任してください、といって辞任できるようならこれも神様とは言わないだろう。神様は人間ごときにたいして責任を取るべきものではおわせられないゆえに神様なのであるからして~。ということは神様に責任を取らせたらいけないのか?こうしろ、ああしろとはいわないのがやはり神様の鉄則だとすると(そんな神様はうるさくてしようがない)、下賤な人間どもが意を組むしかないのか?ということでいつの時代のどの個所を切り取っても同じ模様がみられる金太郎飴国ができあがったのでありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高度経済成長あるいは自己責任

高度経済成長

 1954年8月22日にこの世に生を受けたこの老人は今年よわい66になろうとするわけであるが、その54年といえば諸説はあるようだがなんと高度経済成長が始まった年だというではないか。1954年がその始まりで終了が70年の16年間だというから小生が生を受けてから田舎の高校2年生までのあいだどっぷり浸かっておったということになるわけなのだな。そうであるわけだが小生たち田舎小僧にはどうもその恩恵に浴したという実感がいまいちないのであるからして、小生の記憶だけを頼りにして(要するにエビデンスを無視するわけだが)もとより妄想妄言である以上お許しいただくことにして早速始めてみよう。

 小生、今の今までなんとなく自分だけを頼りに生きてきたように思っていた。というのも生きるということは面倒な付録品がくっついてくるのでそう思っておる方が簡単なのでそのように思うことにしているとそのうちにそう思い込んでしまうようになった次第でありますゆえ。しかし振り返ってみるといろいろな人に助けられ今日まで来ているということが分かるのだがその話は追々するとして、今日の主題は人ではなく時代のことになる。

 これは後世の(といっても今のなのだが)歴史家が言っていることかどうかは知らないが、その前の朝鮮戦争(1950年~53年)なくしては高度経済成長はなかったはずだ。朝鮮で戦争をしてくれたおかげでアメリカは戦争に必要な物資をどんどん底なしのように日本で作って朝鮮半島に送り込んだにちがいないのだが、そのおかげでそれまで栄養失調のようにひょろひょろしていた基盤産業がなんとかひとりでも倒れないくらいの状態までには持っていくことができたということなのだろう。であるなら朝鮮戦争なくして高度経済成長なしだ。高度経済成長がなければ今の日本もないとするならば高度経済成長なくしてアベノミクス(アホノミクスともいわれているようだが)なしともいえるのか?そうであるならアベノマスクも桜の会も朝鮮戦争のおかげだったといえるのか?朝鮮戦争は韓国と北朝鮮という国がなければなかったわけだから、それもこれもがかの国々のおかげだったということなのか?これは極左的論理の飛躍なのか?いや単なるあほの戯言、妄想だと思っていただき先に進めよう。

 さて高度経済成長期とはどんな時代だったのか。この老人は(といってもその頃は立派な子供だったのだが)そこでどんなことを体験したのか?そこで主役と登場となる。小生の親父である。もう今はいない。

 小生の生家は四国の山の町の三軒長屋の一軒だったことは以前の記事でも書いたとおりだ。その長屋の光景を思い出す限りでスケッチしてみよう。

 その長屋で商売をしていたが、小生が生まれたころは大して売るものもないので親父がその日一日売る商品を預かり売ってきたものに対して一個なのか商品全体なのかはわからないが歩合制で、その上に口銭(手数料)まで払わなければ商売ができなかったということのようである。親父はそれを奥に奥に広がる阿波山地のふもとから中腹に点々と散在する商店(うどんのような軽食からぞうりや地下足袋など生活用品大体がそろう雑貨屋)まで自転車で分け入って行っていたようである。そのときの商売道具は、移動手段としては自転車、売り物は草履や下駄少し高価なもので地下足袋、ゴム靴となるだろうか。おそらく終戦直後から小生が小学校入学前くらいはこんな状態だったと思われる。その頃の写真を見たことがあるが、店先にはたしかに草履がつるされていた。おそらく腐らないからというのと売り歩くのにそれほど重くなかったということが履物商の出発だったのだろう。

 その後移動手段には自転車からホンダのオートバイを数年使い、オートバイからマツダのファミリアバンの自動車になったのが小生が中学生になった時くらいだったか。確か小生が小学校5年くらいの時にテレビが、その前には洗濯機が家に入ってきていたとおもう。冷蔵庫は家電では一番最後だったろう。ものを冷やすだけの冷蔵庫は当時あまり必要とはみなされなかっただろうことは容易に想像がつく。必要のないものを購入する余裕はない。店兼用の住み家は次のような様子だ。そとの明かりが透けて見える薄い土壁、隣との仕切り壁は隣の声も聞こえてくる外壁よりまだ薄い土壁、大雨の時には雨漏りし、トイレは床を四角く切っただけなのでウンチを落とした瞬間にお尻を上げなければおつりがついてくるのでその方ばかりに気がとられているうちにいつのまにか便秘がちになってしまい、とうとう中学の後半くらいから痔になってしまったというほどの薄暗いぼっとん便所、便所紙は日めくりや新聞紙、風呂は丸い木の板を足で沈ませるかたちの五右衛門風呂。記憶の最初は手漕ぎポンプの井戸からバケツでいれていたのがいつのころからか水道に替わっていた。主食は米3割、麦7割の黒ずんだ麦飯と裏の畑でとれる菜っ葉類に味噌汁、というものであった。隣近所は裏から出入りし1~2時間話して帰っていく。母親の着ているものは夏だと薄いネルの下着一枚なのでおっぱい丸出しの格好だった。およそ贅沢というぜいたくとは全く無縁の生活が少なくとも小生が高校を卒業するまでは続いたのだ。たとえ移動手段が自動車に替わろうが家電製品が入ってこようが、生活の基本形はほとんど変わることはなかった。貧乏といえば貧乏このうえない生活なのではあるが、周囲を見回しても似たり寄ったりの生活なので小生のうちだけがことさら貧乏というわけではないように思っているので、こんなみじめな生活から何としても抜け出したいなどと思ったことは一度もなかった。麦飯だけはパサつくのと後になれば白米に切り替えたところも多かったので、ちょっと嫌だったが。というわけで小生には細かい不満はいろいろあったがなんとかそこそこ満足した日常生活を送っていたのである。その生活が中学2年の時に大きく変わってしまった。下層階級の生活のコペルニクス的転換である。どうなったのか。

 それまでにじわじわと田舎の人口が減っていたのに気づくはずもなく毎日の仕事にいそしんでいた親父はある日、売掛金ばかりが増えていくことに気づいた。物を売ってもお金が入ってこない、何より物が売れない。それでやっと人が少なくなっていることに気が付いた。頭の回転のほどは人より遅れを取っても気が早いことでは誰にも負けない親父はその発見の数か月後には商売を廃業してしまい店売りだけにして店は母と祖母に任せてしまった。売掛金の金額の8割にするからといって現金を回収したようだ。それが無理なところはあるだけでいいということだ。その後はお決まりの出稼ぎに出るというコースをたどったのである。そういえば小生が中学3年の時に最後の集団就職列車に乗り同級生たちは都会へ出ていったのだったが、親父はこっそり一人で関西地方に出稼ぎに向かったのだった。列車にといっても東北のように乗ってしまえばああ上野駅というわけにはいかない。行く先には海があるから。言ってみれば集団就職列車まがいのものとでもいうことになろうか。小生は大酒のみのうえに乱暴者の親父が煙たくてしかたがなかったので、これ幸いと羽をのばすことができたのだったが。このような具合で高度経済成長の恩恵は小生も受けているのではあるが、ある日ふと気づけば周りから人がいなくなって商売ができなくなってしまった親父のような者にとってはどのような恩恵があるだろうか。だが都合のいいことに後で泣き言を言っても通用しないようになっているのがこの娑婆なのだ。自己責任ということなのだな。時代の移り変わりも自己責任、下々には自己責任でなかった時代などはなかったのである。

 

 

検察庁法改正法案

今日はひとつ政治の話でもしてみよう

 今日の朝刊で検察庁法改正法案が次期国会に持ち越されることになったとの報道があった。廃案ではないので安心はできないが国民の声を押し返すことができなかったのだろう。やはり声を上げることは大切なことだなあ。SNSはどういうものかいまいち理解できていない、完全なIT音痴のこの老人はそのようなもので声を上げることはできないので、ここで声を上げておくことにしよう。ただどうなんでしょうね、声を上げることに反対する人の中には「もっと勉強してから言え」というような意見が沢山あったということですが、こういうことってよく勉強しないといえないことなのでしょうか?この老人など60数年間生きてきても例えばこの法案のこの箇所が問題であり、ここをそのままにしておくと将来このような問題が持ち上がった時にこんなことになってしまう恐れがあるので、そのときにわが父は、わが祖父は何も声を上げなかったということでは先に生まれたものとしての責任が果たせないので、ここはひとつこの法案の問題点を自分なりに明確にしたうえで、反対の意見をきちんと表明しておこう。というようにきちんと襟を正さなければ声を上げられないものなのでしょうか?この老人が唯一購入している新聞のところどころを気の向くままにつまみ読みしている限りにおいては、この法案はどう見てもえこひいきの法案としか思えませんよね。しかし政治というのは不思議な世界ですよね。学校の先生を考えてください。自分はえこひいきすると堂々と宣言してえこひいきする先生はいませんよね。またそんなことをいったら生徒から総スカンを食らうわけじゃないですか。だからえこひいきをする教師はかげで、あまり目立たないようにするわけですよね。また親子関係にしても、兄弟の中でも愛情(といえば言い過ぎならば)手をかけられて育った人間と比較的ほったらかされて育った人間がいるとおもいますが、例えば「兄ちゃんに比べると俺はほとんど手をかけられてない」と親が弟に言われたとしても、普通の場合はもし親がそのことに自覚があったなら、お兄ちゃんを育てるのにどれだけ手がかかって大変だったかなどといって弁解したり、またほとんどの親は兄弟は平等の気持ちがあるでしょうから、そんなことはないと強く否定したあげく、もう大人になったのだからそんなこと今持ち出してどうするのと心の中ではつぶやいているでしょう、きっと。くどいようですが、なんでも自分の思い通りになる順風満帆・いけいけの中小企業の美人創業者社長ならどうでしょう。自分の気に入った中年(いや老年か)イケメン社員ばかりが定年延長になり、この老人のようなよれよれじじいは辞めるときに気にもかけてくれないような会社だとしたら、その社長がどれだけ美人で、カリスマ性があってもその会社の将来はどうなのでしょうか。イケメンばかりで会社がやっていけるのか!もしその会社に社長を脅かすほどの能力を持った美人社員が入ってきたらどうするのか!というわけでありますからして、この能力の高い創業美人社長は自分は能力の高い社員を登用する、えこひいきはしないと公言するのが世の中の常ではないでしょうか?

 ところが政治の世界だけは別物のようでしてえこひいきをすることになにも後ろめたさを感じないようですね。たとえば(たとえが尾籠なたとえでもし申し訳ありませんが)、えらいさんがウンチを踏んだ場合、ソウリそれはウンチではなく黄色いバナナですから全然大丈夫です。周りにはバナナだということにしておきますから、御心配にはおよびません、お任せください。ということで本人にウンチを踏んだという自覚がないのだからこれはウンチではないとかウンチだと断定する根拠がないのでウンチではないのだ。ではウンチでないとするとほかに考えられるのはバナナしかないというというような議論を、なになに専門家というような人たちの間でやってる間に下々はウンチのことばかり考えてはおられないし、ましてウンチでもバナナでもどちらでも大した問題ではないように思えてくるしで、そしてウンチをウンチだと言わない体質の問題が問われているとかなんとか最初は威勢のいいことを言っていたマスコミや野党もいろいろな専門家の意見があることだしウンチと断定するのはどうなのか、などと言い出すとその意見に乗っかろうとするものが出てくるしで、結局はなんとなくウンチの問題もおシッコの問題も収まって行きますから。すべて私共にお任せください。事後、「ほらすべてわたくしの言ったとおりになったでしょう、ソウリ」「~ちゃんはほんとに頭がいいんだねえ、いつも感心するよ、またウンチを踏んだ時はよろしく頼むよ」ということでウンチにしか目がいかない人間ばかりが偉くなるのを見ていると自分もウンチの仲間に入りたくなってくるのはまあ分からないではない。肥えたごの中にどっぷりつかってしまえばシッコもウンチもないだろうから。

 それにしても安倍さんはどうして自分の言葉で伝えようとしないのかな。言い間違えることを極度に恐れているのでしょうか。それとも伝えることがないか?

 持続化給付金の入金開始が本来なら5月8日からというところを8月からといい間違えたことは新聞にも載っている有名な話ですが、一般的には字幕スーパー(今はプロンプトとかいうらしいが)を読んでいるので8日を8月と読み間違えたとなっているようです。かのフロイト大先生が「精神分析入門」の中の失策行為で講義されておられるところを見てもらえば面白いことが書かれています。あるドイツの衆議院議長が議会の開会を宣言しなければならなかったとき、うかつにも「ここに閉会を宣します」とやらかしてしまったらしいのです。この議長は会議がうまくいくとは全く期待していなかったみたいです。とまあ、かの大先生はいい間違いにも間違えるだけの原因があるのだといっているのですが、さていかがなものでしょうか?

人生の目的あるいは無駄な人生

人生の目的

 この老人も人生の終盤に差し掛かってきた近頃、ふともうどうでもいいかと投げやりになってしまうことが増えてきたようだ。そうなると生来のいい加減さからあらゆるものへの興味が一時に崩れ去ってしまうのである。例えば外国語である。単なる外国語オタクのようなものにすぎないのだが、イメージとしては漱石の小説に出てくるような普通の生活をしていながら本棚には洋書が並んでいて、毎日洋書を楽しんでいるようなイメージがこの老人の頭の片隅から去らないので、思い出したように外国語をやり始めるのだ。もう一つは大杉栄が獄中で外国語を勉強しているイメージだ。とうとうこの年になってもイメージが先行してしまうくせから抜け出すことができないでしまった。そうなるとどういったことが生きていく過程で起きるのか?つまるところはあほ以外の何物でもないのだが。

 最初の外国語は誰でもそうだろうが英語である。フランス語が中高の第一外国語だったというやつがいるということを後の大学時代に知るのだが、それはほとんどめったにないまれな事例であろう。私も当然のこととしてジス・イズ・ア・ペンから入ったのであるが、何分超ド級のド田舎なのでそれまでに外国人などほとんど見たことがない、今思い出したが、小学校入学前くらいの時アメリカ軍の飛行機が故障して大川に不時着したことがあり、その飛行機を回収するための道路を作るためだろうが、何か月間くらい兵隊さんたちが隊を組んでやってきていたことがあったので、外国人をほとんど見たことがないというのは記憶違いなのだが、そのことは中学生の自分にはカウントされていなかった。純粋に外国人などほとんど見たことがないと思い込んでいた田舎の中学生にとって英語の授業で先生の後についてジスイズ~というほど恥ずかしいものはなかったのだ。なにせ畑で遊んでいて間違って小便たご(糞尿をためておく桶である)に落ちてしまった奴が「しょうたご」というまったくしゃれもなければデリカシーもないあだ名をつけられ、ともすれば大人になってもそのあだ名で呼ばれ、呼ばれるたびに抗議することにも疲れてしまったのか30も過ぎたおっさんに「しょうたご」と呼びかけると「おー?」(なんだ?くらいの田舎言葉)と答えるというような土地柄なのである。小学校の時に畑で一緒に遊んだ相手が悪かったのだ。おもしろおかしく言いふらしたのだろう。下級生の私らなどは、さすがに面と向かってはあだ名で呼びづらく、かといって名字で呼ぶと呼んだ気にならず(正式な名字を知らなかったやつらもたくさんいたが)、あだ名で呼んでさっと逃げることを繰り返し、逃げ遅れたやつは2~3ぱつ殴られてその場はおわり。みんなその程度の中学生なのである。ちなみに私は顎が出ていたので「あご」だった。なんというあだ名、まさにそのものではないか。脱線してしまったが、そんな生徒たちに英語が必要であろうはずがない。こんな中学でももちろん頭のいい奴はいたが、そんな奴らは特別な頭をしているのだろうが、そいつらを別にすれば英語などはまったく気にもかけないものばかりだった。もちろん私も例外ではなく、まじめに発音に取り組んでいるやつをうしろからはやし立てていたクチである。

 それがどうして外国語オタクのようになったのかと言えば、高校2年の時くらいだったか、英語の教師にシュリーマンの例の自伝のなかでシュリーマンがどのように外国語を勉強したのかという話を聞いた時、それがその時の自分の感情にフィットしたのだろうが、その本を買って読んだあとから英語を勉強するようになったのだ。始めて見れば勉強(点数を上げると言った方があたっているだろう)自体はそれ程困難なことではなく8か月くらい続けるとけっこう成績は上がっていった。大した高校でもなかったからというのが最大の理由だろう。それはそれとして勉強方法は単純そのものだった。まずノートの両ページを使い教科書の英語を単元単位でノートの左側に書き写し、右側に自分で訳を書き込む。わからないところは左側の英語に下線を引き、和訳は空欄にしておく。次に5~6回続けて朗読する。暗記しようとして読まなくてもこの頃の柔らかい頭だとこの程度読めば大体は頭に入るのだから不思議だ。授業では先生の言葉を聞き漏らさないようにしてわからない箇所をノートに書き入れる。これを続けていると英語は得意教科になったので不思議だ。

 ところで私には1度頭にインプットされたものはずっと頭の隅に残ってしまいそれがもぐらたたきのように一定時間あるいは相当な時間経過後にぽんと突然表に出てきてしまうことがよくあるのだが、外国語もその一つで、このときにインプットされたに違いない。その後大学の時にはフランス語にかぶれ、授業はロックアウトされたり、大教室で出席も取らないしでバイト以外にやることがないので、4年間というもの完全な独学で、読み方もわからない状態で「ドーデの風車小屋だより」から読んでいった。この頃には大杉栄の影響もあったのだろう。最終的にはモーパッサン女の一生を辞書を引きながら読める程度にはなった。バルザックは難しかった。

 大学を出てからしばらく社会人をした後はロシア語だ。当時はおそらく日本に1つしかなかったロシア語の専門学校に入学した。無謀にもレーニンドストエフスキーを原文で読むという目的を立てての一大決心だった。ここでは一大決心をして仕事を辞めてロシア語に打ち込んでいるこの私ほどの強い意志があれば初志を貫徹できるに違いないと思っていたのだが、強い意志を持った人間ばかりの上にいいセンスを持っている生徒もたくさんおり、ここで初めて語学にはセンスが必要だということに気が付いたのだった。また上には上がいるという発見もあった。別に私が上ということは全くないのだが、そのときはそう思い込んでいたのだろう。それで2年のところを2年の授業料を払い込んだ後すぐに嫌気がさして行かなくなった。その後も中国語、韓国語、そして大学院受験をきっかけに英語に戻り、一時期は寝ても覚めても英語という時期が数年続いた後、クロマティックハーモニカに興味が移ってしまい英語には見向きもしないという時間を今過ごしているのである。これで実害がなければ笑い話で済むのだけれども、この老人の場合はいろいろお金がかかっているのだ。まずはロシア語の専門学校の授業料、フランス語はバイリンガルみたいな名前の教材(相当高価だった)、韓国語は通信教育、英語はこれが読めればすごいということで次から次へとアマゾンで買い込んだ英書の数々。どれだけお金をどぶに捨てたことかわからない。興味が失せた後は見るのも嫌になるので、目の前から抹殺したいという意識が働くのだろうが、あるときは老妻がこんなものじゃまだといった時にここだと便乗して捨ててしまう(幸いに老妻は私の持ち物には全く興味がないのと自分のものでなければ高価なものでも執着しないので助かっているのだが)とか、誰かにあげるとか、二束三文で売り払ってしまったりして目の前から追い払ってしまうのだ。だがそれで終わるのならまだいい。捨てたり売ってしまったりしたものの中には今でも学習の参考書としては1級品だとされているものがあり、それだから高価なものとなっているものも少なくはないが、また勉強を始めるためにはこれがどうしても必要だということで再び買ってしまうことも何度あったか?その度に当然のように価格は上がっているのだから。そしていま(というシャンソンがあったが)クロマティックハーモニカである。6~7台は持っているだろう。もちろん使うときは一台しか使わないので他は眠っているわけだが。漆を塗ってもらったり、木製カバーにしてもらったり、とうとうクレモナという高級品(ほかの楽器ほどは高価ではないがそれでも30ウン万円ほどした)までそろえてしまったのだ。老妻に知れるところされてしまいそうだ。なに!それだけの余裕があるからできるですって?恥ずかしい話が、いや書いているところを見ればそうでもないか?この老人はほぼ国民年金であるゆえ介護保険料を引かれると7万円あるかないかなのである。今は他の収入でなんとかやりくりしているが、今年は、お前は老人だからということなのか、あるいは使い勝手が悪いのかでごそっと仕事を減らされ、さてこれからと、明日をのみ思い煩う日々が続いているのであります。ADHD爺さんはつらいよ。

今に限らず不要不急です

 不要不急の仕事

 この老人の仕事はすべてがいわゆる不要不急の範疇に入る仕事である。と大上段に構えるようなものではなく、いつもは心の中でこっそりと恥じ入っているわけなのだが。先日ある新聞で天下の養老孟司先生がご自分の仕事のことを不要不急だとおっしゃっておられましたが、この老人などは不要不急の仕事を正月の鏡餅のように切り取りながらなんとか日々のパンに充てて食いつないでいるのであるから、老人自身が不要不急そのものだといえるわけである。こういった機会にわが仕事を考察してみるのも暇つぶしにはうってつけだというわけで、今から試みを始めてみることにしよう。

 実は私はいろいろな資格を組み合わせその中からほんの少しの果実を得ている。言ってみれば社会のおこぼれをすくい上げ、それを何とか見えるような形にしていくばくかのお金をいただいているということになる。さぞかし漁民や農民あるいは大工さんなどから見ればきわめて情けない、小賢しい生き方に見えることだろう。残念なことに生活力というものが徹底的に不足しているのでこういう道を選択せざるを得なかったのである。また一般には「先生」(どこが先生なのだろう?)と呼ばれる仕事に自尊心がくすぐられたということも告白しておかねばならないが。

 今収入のメインとなっているのがスクールカウンセラーなのだが、これはまあ資格ででいえば臨床心理士と公認心理士ということになる。臨床心理士民間資格で公認心理士は新しくできた国家資格であり、その資格はいわゆる名称独占資格なので仕事をする際にそれらの名称は使えませんよ、ということになっている。どんなことをするのかといえばいわゆるカウンセリングを行うのである。それならそのカウンセリングとはなんなのだということに当然なってくるのだが、「それはこうこうなのですよ」と一口ではいえないのである、などと言えばどことなく胡散臭そうなのだが、やっている本人からして何となくそのように感じているのだから、本当におゆるしくださいとしかいいようがないのだけれど。昨年東畑開人さんの「居るのはつらいよ」という本が大佛次郎論壇賞を受賞したが、この本にも沖縄の精神科に職を得た臨床心理士が看護師どころか事務員もやっているような患者相手の仕事をすることに対して自分の専門性とは何か悩み続ける日常をユーモアに包み込みながら書いておられた。私などはこの本がどおして論壇賞なのか不思議なのだが、それはさて置き、臨床心理士がその専門性を発揮したいと思えば(もし専門性というものがあればだが)入院患者にカウンセリングを施行するしかないのだが、そのカウンセリングというもの、むやみやたらに人を見ずに行ってよいものではない。カウンセリングを行ったことで状態が悪くなったなどという例はいくらでもあるからだ。従って医師からカウンセリングの指示を受けた患者のカウンセリングを行うということになる。それなら何をしようか?草野球やバスハイキングという別にカウンセリングの専門家でなくてもできることをやるしかないのである。それがいやならカウンセリングルームに籠っている(それが許されるのならだが)しかない。スクールカウンセラーもそれと同じである。カウンセリングというのはいうまでもなく外来ものなので、本人の意思でそれを受けに来た者に対して対価を示し、一定の時間で、一定の場所で、秘密を守り、一対一の対等な関係で行った結果本人の力で回復していくものと大体の教科書には書かれている。カウンセラーが回復させるものではないということになっている。

 では学校ではどうなっているのか。もちろん学校でもスクールカウンセラー(面倒なので以下SCという)が見かけた生徒に見境なくカウンセリングを受けないかと声をかけるわけではない。まして生徒からカウンセリングを受けたいといってSCのところにやってくることもまれにしかない。ではどうするのか?病院では医者の指示だとすると学校では学校の先生からの要請がある生徒にカウンセリングを行うのである。要請の内容は多岐にわたるので詳説はひかえておく。ここでカウンセリングというと何か非常に高等な技術を使っているように聞こえるが、何のことはない、小学生なら一緒に遊び雑談をする、中学生なら雑談が中心になってくるだろう。相談室と呼ばれている教室に行けない生徒が過ごしている部屋でトランプやウノをして遊ぶこともある。要するに雑談をして遊んでいるわけだ。そこに専門性がないわけではない。例えばこの子は何らかのトラウマを抱えているので今はそれをあまり刺激しないようにしようとか、その子に合った対応の仕方を教員にアドバイスするというようなことである。(大概の教員はふんふんと聞いているが、それはおそらくSCと議論するような無駄な時間を取りたくないと思っているからだろうと想像できる。それでなくとも教師は忙しいのだ)。もうそろそろ結論に入らなければならないが、要するに今はやりのエビデンスの証明がつかないのだ。SCと話したおかげでよくなったといわれることもあるが、よくなったこと自体のエビデンスは問わないにしても(それも教員一人一人の見方によるところ大なのだが)、よくなったとしてそれがSCの力なのか家庭でなにかの力が動いたのか、本でも読んだのか、テレビでよい話を聞いたのかよくわからない。つまり回復していくきっかけはいくらでもあるのだ。

 そろそろ結論に入らなければ。今は学校が休講なので生徒はいない。先生は半数ずつくらいの自宅勤務と出勤という形になっている。自宅勤務だといっても実際は自宅でなにをするでもなく過ごしているのかもしれない。もちろん勉強している人もいるだろう。だがどのように過ごしていても自宅勤務をしているで世間は通用するし本人も何らそれについて疑いは持たないだろう。そう考えると教員は不要不急の仕事ではなさそうだ。生徒はどうだろう。生徒がいなければこの国の将来はないし、学校だって必要ないではないか。学校の生徒こそ不要不急ではないものの代表とでもいえそうだ。ではSCはどうだ?教員が出勤している限りSCも出勤可能とわが県ではなっているが、生徒がいない学校に出勤して何をするのか?掃除か?読書か?どのように過ごすにしろ気の小さなこの老人などは周りの目が気になってしょうがないのである。ああでもないこうでもないと考えながら学校に行ってみると、生徒がいないので勤務は来月からということにあっさりとなってしまった。と、ほ、ほ。SCは不要不急の仕事だというエビデンスが成立してしまった瞬間でもあった。 

生きている間が花 堂々と生きていこう

セーフティーネットにつながるまでは面倒で複雑で屈辱的なことに遭遇しますが、どうか諦めないで、粘り強く交渉してください!

ー コロナ禍で利用できる生活困窮者自立支援制度、生活保護について ー

  この老人、実は40歳ころに独立して相談業を営んでまいりました。細々ともう25年くらいになりますか?最初は行政書士で独立し、宅建ファイナンシャルプランナー社会福祉士臨床心理士、公認心理士という順番で資格を補充してきました。このように書けばたくさんの資格を持っていることを誇っているように聞こえますが、自分の意識としてはその逆で、例えば父親やおじいさんが偉ければ周りはその息子や孫まで偉いような錯覚に陥るというのがいわゆるハロー効果というやつなのですが、こいつはこれだけ資格を持っているのだから優秀な奴に違いないと思われて仕事がウハウハ来ることを狙った狡猾な戦略なのですが、結果としては老人の能力のなさ、いいかげんさ、飽きっぽさ、協調性のなさ、切れやすさ、見通しのなさ等々ないものはいくらでもあげることができますが、それらのためにその戦略はうまくいかずに今に至っておる次第であります。大体裸一貫自分の力だけで生きていける自信のある人は資格なんかは取りませんよね、取るための時間がもったいないので。ですからこの老人の言うことはあまりあてにならないかもしれませんが、相談屋を名乗っている限り少なくともうそはつかないということだけは鉄則にしてまいりました。ただ細部まで調べながら書きすすめるわけではありませんので、細かい間違いはあるかもしれませんが、大まかなところを理解していただければ幸いです。前置きが長くなりましたが、生活に困った場合はどこに行けばいいのか、またどのような心持で交渉に当たればいいのかということを気が付く範囲で書いていきたいと思います。

 現今のコロナ禍で生活に行き詰ってしまった方、この先どうして生きていけばよいのか途方に暮れていらっしゃる方もたくさんいらっしゃるかと思います。実はリーマンショックの後数年間有志で相談会を開いていたのですがその時相談に来られた方の大半が財布の中に100円くらいしか入ってない、米もあと2~3日しか残ってない人達が大半でした。そうなると相談している暇はない、今を乗り切るためには現金が必要、貸してくれるのなら高利でも仕方がない、背に腹は代えられないという状態になってしまいます。ですから相談される場合は余裕をもった状況で相談されることをお勧めします。 

 次にどう行動すればよいのかを見ていきましょう。

ハローワークへ行って「求職者登録」を済ませる

  この時世に仕事を探しても仕事などあるわけじゃないかと思わないでください。

  まず求職者登録を済ませておかないと、以下説明するところでこれを済ませてから

  もう一度来てくださいということになり2度手間になるのです。また仕事を探して

  いる方は求職者ですから今まで自営業者だったので失業保険を掛けていないとかこ

  こしばらく仕事をしていないとかは関係ありません。またハローワークはどの都市

  でも行きやすいところにあると思いますのでまず最初に行っておきましょう。

②居住市の社会福祉協議会へ行く

  ここで「生活困窮者自立支援制度」を利用したいと言ってください。もちろん生活

  に困っているから相談に来たでもいいですが、制度の名称を告げるとこの人は調べ

  てきているぞと、対応が少し丁寧になるかもしれません。

 (少額貸付金・給付金制度として)

 ・総合支援資金 ・臨時特例つなぎ資金 ・住居確保給付金

 (相談制度として)

 ・生活困窮者支援制度

  ※くわしい説明ははぶきますがこれらの支援制度が利用できます。

ハローワーク

 ・求職者支援制度

  ※またハローワークに戻りますが、もしまだ少し手持ち資金に余裕がある方はこの

   際この制度を利用して職業生活を見直してみるためにも、数か月間月10万円程

   度の給付金を受けながら職業訓練を受けるという方法もあります。

④「サポステ」、「チャレンジネット」なども年齢制限などはありますが、利用できま

 す。

⑤市の「生活保護」の利用

  本当はここに最初に行ってもいいのですが、たいていの場合にはまず社協に行って

  くださいと体よく断られます。ですから社協に行って相談したが結果こうだったと

  説明する方が効率がいいのです。生活保護は最後のセーフティーネットだといわれ

  ておりますから憲法で保証する「必要で文化的な最小限の生活」ができなくなった

  場合には堂々と申請してよいはずの制度です。しかしながら現状では窓口で以下の

  ことを確認され、それらに該当すればあなたは無理だということで追い返されま

  す。例えば自動車の保有、不動産の保有、借金がある、資産が一定程度ある(市に

  よって違いますが10万円から30万円くらいです)。これらのことがクリアーで

  きなければ保護に結びつかないのです。

⑥交渉にあたっての心構え・方法

 では相談窓口での具体的な交渉についてみていきましょう。

 1.冷静に話すこと

  相手はいろいろなことを聞いてきます。時にはカチンとくるようなことも言いま

  す。こちらは困っているから相談に来たのにその態度はなんだと思える相談者もい

  ます。それでも最後まで冷静に対処しましょう。相手に嫌な奴だと思われると教え

  てもらえる情報も遮断されてしまう可能性もあります。

 2.相手と対等だと思い堂々としていること

  大半の方がそうなのですが、今の生活に困っておられすぐにでもなんとかしたいと

  思っておられますので頭を下げてなんとかしてもらおうと思うのか必要以上にペコ

  ペコされます。そうしていると相手も人間ですから上下関係のような気持になって

  くるものです。

 3.包み隠さずオープンにする

  何度か足を運びとうとう受給が決定という段になって実は借金があります、車を持

  っていますというような話がよくあります。そうなるとまた最初からやり直しです

  ので相談者の気持ちが萎えてしまいます。隠そうと持っても隠し切れないので最

  初からオープンにするという気持ちで臨む方が結果的にはうまく運ぶでしょう。

 4.メモを取ること

  こちらは慣れないので交渉ごとに夢中になり後で考えると何を言われたのか覚えて

  いなかったり、自分のどの点が給付上の問題となっているのかを忘れてしまうこと

  もよくあります。それらを防ぐためにも必ずメモを取りましょう。

 5.何回も足を運ぶことを覚悟しておく

  1回や2回では成立しませんので、諦めずに何度も足を運びましょう。

 6.同行者と行く

  親、友達、知人だれでもいいですのでできれば一緒に行って立ち会ってもらえる人

  と一緒に行くと話が進みやすいこともあります。相談者、被相談者ともに冷静にな

  りやすいからでしょう。

  

最後に窓口に行くと、相手は慣れているので事務的なことを淡々と聞きますがその態度に腹が立ってしまうことがよくあります。それは我々が冷静さを欠いているのでしょう。担当者はできれば何とかしてあげたいと思っている人がほとんどだと思います。ですから自分の気持ちを隠さずに、落ち着いて交渉してください。

 

  

 

 

 

 

 

 

名もない人間の生い立ちの記

フーテン老人は目下、コロナ禍で自宅待機を余儀なくされているために、暇つぶしのために慣れないパソコンで思いついたことを書いていこうと一大決心をしたのである。

さて何から書き始めようかと思案するのでありますが、なにせ初めての経験なので自己紹介からでも始めていきましょうか。

 私は四国の中ほどにある山と川しかないのんびりとしたド田舎で生を受けました。ちょうど伊勢湾台風の時だったそうで、三軒長屋の一番端の家だったのでみすぼらしい薄い土壁が雨と風のせいで崩れ落ちてしまったことを母と祖母がよく話していました。高度経済成長などどのような人がその恩恵を被っていたのだろうと今の今まで思っていたのですが、なんとそれがいつ始まったのかといえば1954年とあるではありませんか。まさに私なんかはその申し子だといえるわけです。実感は全くありませんが。どちらにせよ四国の森の中(などと書けば大江健三郎さん流でなんだかかっこいいのですが、わが町には森はなく自宅から北に1.5キロくらいで大川へ、大川に出るまでには鉄道の線路があり線路の北側から大川までは田んぼと畑しかない。目の前は小学校に通じる坂道、坂の途中は水の淀んだ蓮池、その並びに墓場があり、道路を挟んで、その上に木造小学校が建っている崖がある。その小学校の背後にはもう山が迫っているという、猫の額のような土地で今日明日どうやって食べていこうかで頭がいっぱいな人達が生活している路地の多い町でした)。鉄道から北側にどうして家がないかといえば2~3年に1度は大川が氾濫してそのあたり一帯は水につかってしまうから家は建てられなかったのです。そんな狭い土地ですから人々は山の上にまで家を建てて住んでいましたので「都会の人が来たら、ここの星は近いですね、といわれて何のことかわからんかったけんど、山の家の明かりのことを言うとんでよ。都会にはやまはないんか?」と自嘲気味の笑い話を耳ににすることもありました。

 さてそこでの暮らし向きはどうあったのか。わたしの家はいわゆる食品以外を扱う聞こえよく言えば、何でも屋だった。どうして食品以外なのかといえばもちろん冷蔵庫などというものはないので食品は腐ってしまうからが表向きの理由だが、仕入れのお金がないのでほとんど店に置いておくものがなかったからというのが本当の理由だろう。ではどうやって商売していたかというと、問屋などというものはなかったので、親父はある程度商品を持っている店に頼み込んで、朝商品を自転車に積んで山に入り込み山の雑貨屋のようなところに現金でおろし、夜そのお金で清算し、翌日の生活費にしていたというその日暮らしの時期が数年続いたようである。母親と祖母は生まれがもともと農家なのであちらこちらで小さな畑や田んぼを借りて作り、ほとんどお金を使わない生活をしていたようだ。

 親父は今でいう母子家庭に育った。父親が亡くなったとかそういった殊勝なものではなく親父が幼年期に父親が女を作って出ていったので母と子の二人の生活を余儀なくされたのだ。大酒のみだった親父が父親への恨みつらみ、父がいないことの結果としての貧乏暮らしを飲むたびに繰り返したのでその話は宙で覚えているくらいだった。ただそんな状態だったからわたしの家が特別貧しかったかというとそうではなかったように記憶している。小学校の地区割りでは我々の地区は駅の西に位置するのでいわゆる駅前商店街の一角にあったのだが、そこを東に向かって歩くと800メートルくらいで町はずれになるのだが、その道の両側がほとんど3~5軒長屋で暮らし向きも大して違わなさそうな洟垂れ小僧ばかりが地区ごとに数人集まり似たような遊びで悠久の時間をつぶしているのだった。60年前当時の遊びといえばかくれんぼ(隠れるのに都合の良い小屋がどこにでもあった)、缶蹴り、釘立て、ビー玉(ラムネと言っていたが)、鬼ごっこ、コマ廻し、チャンバラや戦争ごっこなどか。また主に他地区の子供とは石合戦といって本気で石を投げあう遊びがあったが、小学校高学年の子供が投げてくる石は鼻先で「びゅっ」とうなりをあげて飛んでくるので怖かったはずなのだと思うが、今は楽しかった経験しかない。

 石合戦が始まるきっかけはこうだ。例えば我々のグループが他の地区の空き地を通掛かったとする。空き地があれば大抵そのあたりのガキが遊んでいる。そこで難癖をつけられる。その辺りはそいつらの縄張りなのだ。だから尋常には通してもらえない。我々の行く道をふさぐのだ。そこで引き返すと小学生なら学校で小さくなっていなければならない。あいつらは弱虫だと学校で騒ぎ立てられるからだ。そうなるのは死ぬことよりもつらいことなのでお互いの大将が出てどうなれば勝ちというようルールをその場で話し合ったうえで合戦が始まるのが常だった。どうなれば勝ちだったかはよく覚えていない。冬はコマ廻しで、その他の時期はビー玉が多かったように思う。夏はもちろんプールなどはないので川で泳いだ。